雁堤

雁堤(かりがねづつみ)は、静岡県富士市を流れる富士川左岸にある、江戸時代に建造された大規模な堤防。その姿が、群れをなして飛ぶ雁の姿に似ている事からこの名前が付いた。富士市指定史跡となっている[1]。

一級水系富士川は、古くより日本三大急流の一つに数えられており、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していたが、1615年から古郡重高・重政・重年の父子3代が、1674年の完成まで50年以上の歳月を費やし、水田を富士川の洪水被害から守るため、「雁堤」と呼ばれる全長2.7kmに及ぶ堤防を完成させ、「加島五千石」と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。

堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。

堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。

とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 (人柱になった僧自身は999人目や1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。)

人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴ともい言える曲がり角に埋められることになった。 僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。

人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。

現在の富士川は、潤井川などの支流への水量調整や、日本軽金属蒲原製造所が自社水力発電の為に、雁堤よりも上流で水を採水し、そのまま駿河湾へ流しているため、昔のような水量ではなく、水敷からも距離があるが、現在も築堤として使用されており、河川区域として国土交通省が管理している。

広大な堤内地については、隣接する富士市立岩松中学校のサッカー場などのグラウンドの他、市民が利用できる多目的グラウンド、ゲートボール場などとして富士市などに占用許可が与えられている。またみかんやお茶などの畑としても利用されている。

秋になると長さ1km以上にも及ぶ沿道にコスモスが咲き乱れる。近隣の町内会ごとにエリアが分けられ、当番制で水遣りなどの他エリアに負けずと手間をかけて育てたコスモスはNHKなどの県内テレビニュースでも取り上げられるほど有名となっている。

毎年10月の第1土曜には、古郡親子3代の偉業と、築堤や氾濫での犠牲者、そして人柱となった僧を弔う「かりがね祭り」が催される。

 中里村の古郡孫太夫重高は籠下村(松岡)の開拓のため堤防工事に着手し、元和7年(1621)岩本上に一番出し、二番出しといわれる突堤を築き、その子重政は、引き続きこの地の新田開発のため、加島代官に任じられ、新田開発のため手腕を発揮しました。さらに重政の死後、その子文衛門重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める広大な遊水池を準備することを着想し、逆L字型の堤防を築造しました。
 こうして雁堤は、古郡重高—重政—重年の三代にわたる50年余の歳月と莫大な経費、そして治水の工夫を結集して完成し、以後富士川の氾濫から守られた加島平野は、「加島五千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わったのでした。

私財を投げ打ってまちを人を守ろうとした人たち。痛み入ります。この人たちこそコピーレフトなんじゃないですかね。ペレルマンも「自分の証明が正しければ賞は必要ない」としてフィールズ賞の受賞を辞退していますし、クレイ数学研究所のミレニアム賞を辞退しています。それどころかハミルトンのリッチ・フロー発見に対する評価が十分でないことなど、数学界の不公平さに異議があるとおっしゃっております。望月新一さんも「自分の研究が役に立てばそれでいい」と賞にはこだわっていないようです。